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言葉は現実になる。認知的不協和を利用して自分を変えよう

こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。 例えばの話ですけど、自分はそれほど嫌いでもない人の悪口を友達が言っていて、その話に合わせているうちに自分もだんだんその人のことが嫌いになっていってしまう・・・ っていう感じ、なんとなくわかりますかね? 似たような事例は結構ある気がします。 この現象、心理学的には 認知的不協和 が原因の一つであると言われています。 《認知的不協和》 認知的不協和 とは、 自分の中で矛盾する二つの認知を同時に抱えると不快な気持ちになる というものです。 冒頭の例でいえば、「悪口に合わせてしまった事実」と「その人のことをそれほど嫌いでもないという感覚」が矛盾してしまっているのです。 そして、「悪口に合わせてしまった事実」の方は変えることができないので、自分の感覚の方を変える(本当に嫌いになってしまう)ことで事実関係に整合性を持たせて不快感を解消するのです。 《酸っぱいブドウの話》 イソップ童話に酸っぱいブドウの話がありますね。 お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。 というものです。 これも認知的不協和で説明できますね。 「おいしそう、食べたいという気持ち」と「何度跳んでも届かないという事実」の間にズレが発生しています。 届かない事実は変えることができないので、気持ちの方を変えてしまった のですね。 《ここから学ぶことは》 イソップ童話はあくまでフィクションですが、似たようなことは僕たちも結構やっているんじゃないかと思います。 卑近な言葉でいえば「負け惜しみ」みたいなこと、ついやってしまいます。 ダメだよね、良くないよね、という話ではなくて、このような心の働きがあるからこそ過剰なストレスを抱えずに生きていけるという考え方もできます。 毎回毎回「クソッ、ブドウが取れない!」といった感じでまともに...

サッカー香川真司選手に学んだ生き方のヒント

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こんにちは、こんばんは 。 先日のワールドカップ、本当にワクワクしました! 惜しくもベスト8進出とはなりませんでしたが、僕が以前から好きだった 香川真司 選手や 柴崎岳 選手も活躍していて大変見応えがありました。 そんな代表選手たちの熱いプレーに触発されて、僕も色々なことに精力的に取り組んでいる訳であります。 そのワールドカップを見ている中で、「あ、これは・・・」と感じるところがあったので、書いておこうかなと。 「香川真司選手に学んだ」といっても、ただテレビで日本代表の試合を見ていて思うところが有ったというだけの話なのですが、自分のための備忘録として一応記事にしておきます。 香川選手といえば言わずと知れた、サッカー日本代表の背番号10番です。 ドイツのドルトムントやイングランドのマンチェスターユナイテッドでもプレーした日本トップクラスの選手です。 外国人の知り合いに「日本のサッカー選手知ってる?」と聞いてみると、「シンジカガワは知ってるよ」という答えが返ってくることもしばしばです。 僕は彼のプレーが好きなのですが、はて、と思うことがありました。 確かに香川選手は日本を代表するプレイヤーだけあって、ドリブルもパスもシュートも高い技術を持っているとは思うのですが、 何か物凄く強烈な必殺技を持っている訳ではない んですね。 物凄く強いミドルシュートを打つとか、物凄いドリブルで相手ディフェンス陣をズタズタにするとか、そういうプレイヤーではありません。 それでも香川選手は日本の10番なのです。 メッシ選手やネイマール選手とは異なる10番の在り方なのです。 これが僕にとって非常に興味深いものとして映りました。 《香川真司のすごさ》 香川選手のプレースタイルは 「周りを動かしつつ自分も動いてゲームを作る」 というものですね。 味方が動いてできたスペースに入ってパスを受けたり、そこからサイドに展開したり、香川選手に釣られて浮いてきたディフェンスによってできたスペースを使ったり、そういったプレーができる人です。 特にボールを受けに行ったり、孤立した見方のサポートに行ったりといった動きはとてもいいですね。 特筆すべきは、この連動が上手く...

学校と家庭の連携?ふざけるなよ!子供を潰す気か!

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。 近年、教育における学校と家庭、或いは塾なんかも、 連絡を密にして連携して子供に接するのが大切だ とされています。 確かに、親と先生とが全然違うことを言ってきたら子供は混乱します。 何を信じたらいいんだ? となることでしょう。 だから しっかりと連携を取って一枚岩の教育を実施するべきだという主張は至極真っ当である という気はします。 ですが、タイトルからも想像がつくと思いますが僕はこの考え方に疑問を持っています。 親や先生の言うことをすんなり受け入れられる人はそれでもいいかもしれません。 でも、「なんか違うな」「そういうことじゃないよな」と思ってしまう子はどうしたらいいでしょうか。 《親とは、先生とは、大人とは》 例え親子であっても別の人間 です。 どんなに長い時間一緒にいても、どれだけ大切に思っていても、感情や価値観はどうしても異なっていきます。 もちろん人間として当然守るべきこと、法律が有っても無くても当然にやってはいけないこと(暴力はいけない、人のものを取ってはいけない、約束を守る、等)は親がしっかりと躾をするべきだと思いますが、 社会的な価値観は親子であっても違って当然 だと思います。 先生も同じです。 確かに先生は学習面では生徒・児童よりかなり進んでいますし、人生の先輩でもあります。 尊敬すべき相手ではあると思います。 しかし、 人間として根源的に立場が上かというとそんなことはありません。 生まれつき偉いということは無いのです。 いつもいつも正しいことを言える訳でもありません。 そもそも「正しいことって何?」という話ではあります。 そう考えていくと、親も先生もいつでも子供の為になることを言える訳ではないのです。 当然ですが、大人たちは親切のつもりで子供に声を掛けます。 「勉強をしなさい」 「宿題はやったのか」 「この偏差値ならこの学校だな」 「そんなの社会では通用しない」 「世の中そんなに甘くない」 「もっと現実を見ろ」 ・・・・・・・ こういった言葉は別に意地悪をしようというのではなくて、基本的に子供の為を思って発されます。 ...

人生の大半は意味のないものでできている

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こんにちは、こんばんは。 思春期おじさんです。 先日、塾の生徒に聞かれました。 「三角形の合同証明なんてやる意味あるんですか?」 これは本当によく聞かれます。 合同証明、三平方の定理、円周角の定理、、、、 色んなパターンがありますが、本質的には同じ質問でしょう。 僕はこう答えます。 「意味ないよ。大人になったら使わないよ。」 もちろん使う人もいるのでしょうが(僕はそれを教えるのが仕事なので使っていますが)、 多くの人々は三平方の定理を忘れてしまっても生きていけるでしょう。 現に僕の母は、僕が教えるまで三平方の定理を知りませんでしたが、この放蕩息子が成人するまでちゃんとご飯を食べさせてくれました。 三角形の合同証明ができてお金を稼げるかといえばどう考えても稼げないですし、これが出来るか出来ないかで人間としての価値が上がったり下がったりすることも無いと思います。 「じゃあどうしてやるの???」 という顔をされます。 そんな時によく話すのは、こういうことです。 《これまでの人生でどれ程意味のあることをしてきたか?》 僕は小学生の頃、休み時間になるとドッジボールをしていました。 ボールを2個にしてみたり、3個にしてみたり、外野を全方向にしてみたり、リーグを作って星取り表を書いてみたり・・・ 本当に勝ちたくて、試行錯誤を繰り返して、 ドッジボール一つでよくそんなに楽しめるなってくらい遊びました。 勝っても負けても特に報酬もペナルティも無いのですが、それでも必死でした。 「それ、がんばって意味あるの?」 どう考えても意味なんて無いでしょう。 ドッジボールのプロになろうなんて1 ミリ も考えていませんでしたし、そもそもドッジボールのプロリーグなんてあるの??? 勝とうが負けようが、実利的な事なんて何一つないんですよ。 「昔、ドッジボール強かったです。」 で合格できる大学や、採用してくれる企業なんてないですよね。 じゃあこれは無駄な時間だったと思いますか? この時間を使って実利的な勉強をした方がいいと思いますか? また、放課後になると、秘密基地を作...