胡散臭い話だけど徳を積むのもアリかもしれない
本当に自分で言っててもうさんくさいなーって思ってるんですけれども、「徳を積む」みたいなこともありなんじゃないかなっていう気が最近はしています。
まあここで「徳を積むとは何か」みたいな定義論から始められると困るんですけれども。笑
そんな仏教に詳しいわけでもなんでもないので、もうちょっとあっさりと考えて、
「いいことをする」ぐらいのニュアンスで書いていきますね。
とにかく、何の儲けにもならないとしても、1円の得にもならないとしても、
人のためになるようなことをやったらいいんじゃないかなと最近考えています。
例えば小さな話で言うと、
ゴミを拾うとか、
電車で席を譲るとか、
重い荷物持ってる人手伝うとか、
本当にその程度のことでいいと思います。
ただそこでちょっとスピリチュアルな話になるのは僕はあんまり好きじゃなくて、
天の神様がみてるだとか、
因果応報的な話で自分に返ってくるとか、
そういう話をしたいわけじゃないんですよ。
自分のメンタルのためにもいいですよって話です。
いいことしたら「俺いいことしてるやん」みたいなちょっとワクワクした気持ちになりますよね。
僕はよく職場の掃除をしています。
僕の職場の掃除って、別に担当箇所が決まってるわけでもないし、何曜日は○○さんがやるって決まってるわけでもないんですよね。
強いていうなら、「手が空いた人がやる」みたいな感じで、
掃除をしたら給料が上がるわけでもなければ、
サボったら給料が下がるわけでもなく、
みんなのボランティア精神に頼ってるところがあります。
それは十分わかってるんですけれども、それでも僕はやりたいわけです。
やっぱり掃除をしたら綺麗になったっていう達成感もありますし、みんなも喜ぶし、お客様も快適だし、結果的にいい評判に繋がるかもしれないし、特に悪い事って無いんですよね。
確かに1円の得にもならないのですけれど、逆に損をすることもないので、かなり率先してやっています。
抽象的な話ですが、苦しんでいる人がいるって気付いてたのにそれを見て見ぬふりした時の罪悪感ってありますよね。
罪悪感って言うと大げさかもしれないですけれど、なんかモヤモヤした感じ、心がざらついた感じになります。
例えば電車とかで、「松葉杖ついて明らかに怪我してそうな人がいたのに席を譲る声かけをする勇気が出なくて寝てるふりをしちゃった」とか。
そういう時って、座っていても全然気分が休まらないですし、そんな大したことではないかもしれないけどなんだかモヤモヤした感じになりますよね。
あれを毎日ちょっとずつ積み重ねながら生きていくっていうのは、
自分のメンタルヘルス的に良くないんじゃないかと思いまして。
で、自分の精神状態が良くないと仕事のパフォーマンスとかも下がりますし、
逆に「気持ち的にのっていると仕事とか勉強とかもはかどる」みたいな面が一定程度はあると思います。
「神様が見ている」みたいなスピリチュアルな話じゃなくて、自助努力の一環として徳を積むっていうのも捨てたもんじゃないと思ったという話でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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